10節・3P
「たいだいま」
2人は家の玄関を開け、彩子の元気な声が家の中に響いた。
「お帰り」
奥でママの声が聞こえ、近づいてきた。
「ママには言わないでよ」
千絵は彩子にこそこそ言った。
「判ってる」
普段ならリビングでくつろぐのだが、母にも眼もくれず、2人は2階に上がり、別々の部屋に入った。母はいつもと少し違うなと言う違和感を感じたが、それほど気にも留めずにキッチンに戻った。
千絵は着替えもせず、鞄をひっくり返していた。
「やばいなー、どこでなくしたんだろ」
思い出そうにも思い出せない。そのときノックの音がして、彩子が入って来た。
「ほら、120万」
「でも借りても返せないわ」
「いいのよ上げるわ」
「えー!いいの?」
その言葉に千絵は驚いた。
「そのかわり条件があるんだけど」
彩子は言いにくそうに言う。
「お金出してくれるなら、何でも聞くわ」
千絵は助かったと言った気持ちで胸をなで下ろした。
「ほんと!」
その言葉を聞いて、彩子は喜んだ。
「それで彼の事なんだけど」
彩子がそこまで言うと、千絵の顔が強ばった。
「彼を私に譲ってくれない?」
彩子は言いにくそうに言ったが、それを聞いた千絵は目玉が飛び出さんばかりに驚いた。今までは半分冗談と思っていたが、これだけひつよく言うことを考えると本気みたいだ。
「ダメよ、それだけはダメ」
「さっき何でも言うこと聞くって言ったじゃない」
「でも、それはダメよ。他のことなら何でも聞くから」
「じゃー、このお金やめた」
「えー!」
千絵は急に弱気になった。
「千絵が松本さんに、今までのは遊びだったのよ、と言えばいいのよ」
千絵はうつむいたまま何も言えなかった。
「簡単でしょ」
そう言われると、力が抜けた。千絵に選択の余地はなかった。彩子はお金を置いて、部屋から出て行った。
その日の夜、千絵は布団の中に潜り込むと、松本の顔を浮かべ、彼をふる練習をした。
「今までのは遊びだったの」
と言ってみた。
「嫌、絶対に言えない。そんな事」
そして、また松本の顔を浮かべた。
「好きって言ったのは嘘よ。ちょっとからかっただけ」
「絶対、無理だ」
「本当はタイプではなかったの。私、面食いだから、もっとカッコいい人が好きなの」
いくらでも言葉は浮かぶが、そんな事を考えていると悲しくなるばかりだった。
千絵は、布団の中で丸まり、悲しさで体を震わせていた。それが布団の上からも伝わり、布団が揺れていた。
「私は、やっぱり不幸の星の下に生まれたのよ。私に幸せなんか、訪れるわけはないのよ。夢見ていた私が馬鹿だったわ」
そう言うと涙が流れた。
「パパ、早く帰ってきて」
「パパ早く。こんな家なんか、もう出たい」
「パパと出会わないと、幸せは来ないと思うの。パパ早く私を迎えに来て」
涙が止まらなくなっていた。