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 アパートまで走り、玄関で傘を手につかむと、自分が傘を差すのも忘れ、全速力で早苗の家の方に走った。次第に雨は激しさを増し、髪とシャツを濡らし、跳ね上がったドロがズボンの裾を汚した。しかし走るのはやめず、息を切らしながら、雨のシャワーの中を全速力で走っていた。

 広瀬は真剣な形相で、遠くの一点を見つめて、早苗の事ばかり考えていた。速く、行ってあげないと、早苗が濡れる。自分が雨に濡れている事は、頭になかった。

 5分ほど走り、息を切らして立ち止まったとき、早苗が俯き加減で、びちょびちょになりながら、トボトボ歩いている姿が目に入った。しかし早苗は暗い表情で、雨に濡れている事を気にせず歩いていた。

 「後もう少し」だと思い、息を切らしながら、早苗に近づいていき、早苗の頭上に傘を差した。

 そのとき、早苗はボーとした表情で、顔を上げると、広瀬の顔があり、暫く状況が飲み込めなかった。広瀬は息を切らしながら立ち止まると、早苗も立ち止まり、心配そうに広瀬を見ていた。そのとき初めて広瀬の優しさに感動した。

「私を追っかけてきてくれたの」

 そう言った早苗の目には涙が溢れていた。早苗が見ると、広瀬は、びしょびしょになっていて、びしょびしょになりながらも自分を追っかけてくれていた事が嬉しかった。こんなに私のことを心配してくれていたんだと再確認できた。そして、別れを切り出さないでよかったと思い、いろんなことを考えると、涙が次から次へと溢れ出してきた。

「私は、こんなに幸せなのに、どうして別れないと行けないの」

 早苗は心の中の父に叫んだ。

「どうして、お父さんは判ってくれないの」

 冷たい鉄のような心の父を持ったことに、早苗は悲しくなってきた。

「私は絶対別れないから。お父さんの言う事なんか聞かないから」

 涙で目が潤み前が見えない。荒い息も落ち着き、早苗の顔を見た瞬間、広瀬は早苗を強く抱きしめた。強く強く抱きしめられた事で、早苗は愛されていることを強く実感し、更に涙が出てきた。

「ありがとう」

 早苗は心の叫びを口にしていた。広瀬は早苗の涙を指の原で優しく拭くと、唇を近づけ、キスをした。早苗は幸せに包まれているような気持ちになり嬉しくなり、別れようと思った自分を情けなく思った。

 

 2人は1つの傘に入り、手を繋いで歩き、幸せに包まれていた。早苗のさっきまでの暗い表情とはうって変わって、明るい表情に変わっていた。

「私、幸せ。本当に幸せ。広瀬君と知り合えて良かった」

 早苗はとびっきりの笑顔で、広瀬を見ていた。早苗は家まで出来るだけゆっくり歩きたかった。広瀬と離れたくないので、ゆっくり歩き、ぴったり寄り添い、もじもじしていた。

「私、広瀬君と一緒にいたいの。ずっとずっと離れたくない」

 心の中で、そう呟いていた。

 広瀬は、その早苗の雰囲気が河合らしく、思いっきり抱きしめたい衝動に駆られた。しかし早苗の家までは距離が短かったので、すぐに着いた。

 早苗はこのとき幸せに包まれていたが、しかし、この幸せも、そう長くは続かなかった。

 

 家の前まで来ると、早苗は別れたくないと言う気持ちで、立ち止まり広瀬の方に体を向け、俯いていた。丁度そのとき、雨は激しさを増し、1m先も見えないくらいの視界の悪さになった。2人は1つの傘の中で、雨に濡れないように、ぐっと体を寄せ合った。それがお互いにとって幸せで、いつまでもこうしたい、もう離れたくないと言う気持ちが強くなっていった。雨が激しくなった事で、ぐっと抱きしめて貰う事が出来たので、雨に感謝した。

 その横をヘッドライトを灯した車が、ゆっくり通りすぎ、2人を照らしたとき、家のすぐ横の歩道で2人は傘に包まれ、キスをした。ヘッドライトの灯が照らした、雨のカーテンの中で、2人は引かれあい、仲のいいオーラを出し、キスしている姿は絵画のように美しかった。キスを終えると2人は顔を近づけ、見つめ合っていた。お互いの瞳に溶け込むかのように、見つめ合っていた。

「もう別れたくない」

 早苗は強い思いを込めて、広瀬を見つめていた。

 ヘッドライトを灯した車は家の敷地のガレージの中に入っていったが、視界が悪く、自分たちの世界に閉じこもった2人には見えなかった。雨のバリアの中にいるかのように、自分たちの世界の中に入っていた。

 そこに近づいてくる男の姿に、2人は気づいてなかったし、激しい雨の中、男がすぐ近くに居ても気づかない。しかし次の瞬間、天国から一気に地獄へ引きずられるような恐怖を感じた。

「君が家の娘と付き合っている人か?」

 厳しく、冷たい声が背後から聞こえ、身震いがした。

 その声に一番に驚いたのは早苗だった。早苗の笑顔に包まれたえびす顔が、一瞬にして凍りつき、全身から発していた優しいオーラは、一瞬にして冷え切ったものになっていた。広瀬も家の前でキスしたことで、恐縮するかのように萎縮し、今までの幸せな気持ちは一瞬にしてかき消された。少し軽率な行動を取ってしまったと反省の念と、後悔の念が全身を駆けめぐった。雨のバリアで、世間の目から遮断されているかのように思えたので安心しきっていたのだ。

 広瀬が早苗の父を見た瞬間、それが早苗の父だというのは早苗の様子からすぐに分かった。父の厳しくて、冷たい声と、怒りに包まれた全身から、相当怒っているのを感じることが出来た。

「どうしよ」

 恐怖でおののくばかりだ。

「は初めまして。広瀬と申します。早苗さんとは、けっ結婚を前提にお付き合いさせて貰ってます」

 それだけ言うのが必死だった。父の怒りに包まれた全身を見ると、広瀬も凍り付いていた。

「娘には二度とつきまとわないでくれ!娘には、もっと娘に相応しい人じゃないとダメなんだ。この三浦家には、三浦家に相応しい人がいて、娘には、既に決まったフィアンセが居るんだ」

「どうもすいませんでした」

 広瀬は腰を低くして謝った。

「判ったら、さっさと帰れ」

 早苗は、広瀬にもう少し頑張って欲しいと心に思いながらも、この鉄のような頑固な父の心を溶かすことは出来ないのは早苗が一番知っていたのだ。広瀬が早苗をチラッと見ると、早苗は引きつった表情を浮かべていた。広瀬は父と早苗に一礼すると、雨の中を帰っていった。

 雨の中、2人は残されたが、早苗は父の方を見ることも、話すこともしなかった。父が家の玄関に入っても、その場で立ちつくし、雨に濡れながらも、その場に残るさっきまでの幸せな気持ちを噛みしめていたかったのだ。

「濡れるから早く入りなさい」

 父のその言葉を無視して、全身ずぶぬれになりながらも、さっきまでの幸せな気持ちを味わっていたかったのだ。その場を去ると、もうあの幸せな気持ちに一生出会うことは出来ないんじゃないかと思えたからだ。

 雨に濡れ、涙に濡れ、暗い表情で、俯き加減で、突っ立っていた。激しくアスファルトを叩く雨の音に促されて、大きな声を出して泣いた。大きな声を出しても、それを全て雨が消してくれたので、思いっきり大きな声を出した。そして大きな声を出すことで、更に悲しさは助長された。

「もう広瀬君とは、これで終わりなんだ。もうこれで会えない。どうして私は、こうも不幸の星の下に生まれてきたの。生まれ変わったら、広瀬君と幸せになりたい。きっときっと一緒になって、幸せになりたい」

 いつまでも募る後悔の念。そんな簡単に広瀬のことを忘れることなんて無理だし、忘れ去ることなんて出来ないのだ。

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10へつづく